思い出の青葉陸橋

こんにちは、店主です。

梅雨も明けて毎日厳しい暑さが続いております。
体調にはくれぐれも気を付けて夏を楽しみたいですね。

さて、今回は幼い頃の思い出について。。。

『思い出の青葉陸橋』

僕は3歳の頃に宮崎市丸島町という街に引っ越してきた。
そこから高校卒業までの時間をここで過ごした。

自宅の窓からはとても大きな陸橋が見え、僕はその陸橋がとても好きだった。
陸橋の名前は『青葉陸橋』。
青葉陸橋の全長は丸島町の五差路交差点(現宮日商事ビル)を少し過ぎた辺りから
ナフコ(DIYショップ)の交差点(現野崎クリニック)辺りまでだったと記憶している。
青葉陸橋はJR日豊本線の複数の線路(車庫?)をまたいでいたので、
とにかく巨大で長く、迫力もあったが、子供ながらに愛着も湧く不思議なものだった。

そんな青葉陸橋を歩いて渡るには陸橋の最高地点から地上へ真下に延びている階段まで
陸橋下の薄暗い道を進まなくてはならず、普段、通り慣れていない僕にとっては少し怖い道だった。
また、自転車で渡るには一般自動車やトラック、ダンプカー等と並走しなければならず、
危険であった為、幼稚園の頃はもちろん、小学校中学年になるまでは
青葉陸橋は一人では歩いても自転車でも渡ってはいけないと親から強く言われていた。

でも、だからこそ、その頃の僕にとって親に内緒で青葉陸橋を歩いたり
自転車で渡ったりする事はとても刺激的であり、冒険そのものでもあった。

そんな中、僕が小学2年生の夏、父の誕生日に何かプレゼントを渡そうと考え、
風呂掃除をして貯めたおこづかいで『テレビ枕』なる物を買いに
ナフコ(DIYショップ)に行く計画を思い付いた。
『テレビ枕』はその名の通り、寝ながらにしてテレビが観れる優れた枕であり、
当時の僕は、これは父にピッタリだと興奮していたのを今でも憶えている。
ちなみに、この『テレビ枕』だが、ナフコの新聞チラシで500円程度の数量限定特価で
売り出されていたものだった。
父へ贈れる最大限のプレゼントであった。

プレゼントを買いに行くにあたり、当時の僕は自転車にはもちろん乗れたが、
『テレビ枕』は自転車の籠には入らないサイズであった為、ナフコへは歩いて買いにいく事にした。
そのルートだが、ナフコへは青葉陸橋を渡るルートが最短であったが、
陸橋は渡ってはいけないと親との約束があり、ルートの設定には子供ながらに非常に悩んだ。
ただ、陸橋を迂回してしまうと、歩行距離が倍以上に延びてしまい、
とても『テレビ枕』を持ち帰るだけの体力はなかった。
その為、僕は、行きは陸橋を迂回し、帰りは陸橋を渡って帰る計画にした。
もちろん陸橋を渡って帰る事は親には内緒であった。

意気揚々とナフコへ買い物に行くと、店員のおじちゃんが
『なぜこんな子供が一人でテレビ枕を探している?』と、
摩訶不思議な視線を浴びせながらも、握りしめた特売チラシをもとに
目的のプレゼントをなんとか買う事ができた。

夏の炎天下の帰り道、『テレビ枕』が歩く僕の視線の殆どを占めつつ、
ダラダラと流れる汗を吸い取ってくれながら僕らは共に無事帰宅する事ができた。
その時点ではもう『テレビ枕』ではなく、陸橋を共に越えた『戦友』
ないしは吸水性の優れた『タオル』に変わっていたのだが。。。

陸橋を越え帰宅した僕に、父と母からの厳しい眼差しが向けられた事は言うまでもないが、
プレゼントを買って帰った心意気がそれらを相殺し、怒るに怒れない顔になっていたのが少し可笑しかった。
ちなみに例え父と母から怒られたとしても、この大冒険を完了させた事が当時の僕にとっては
とても重要であり、後悔や反省はあまりしなかったと思う。

そんなこんなで他にも沢山の思い出をくれた青葉陸橋。
そんな青葉陸橋も時代の変化には逆らえず、僕が中学校卒業くらいの頃に取り壊されてしまった。
今から20年程前の事だ。
現在はJR宮崎駅から南北に延びる鉄道高架ができ、その高架の下を陸橋が担ってきた道が走っている。

今、僕の息子が初めて僕が青葉陸橋を見たときと同じ3歳になった。
彼の目には周りの風景がどう映り、更に今後、思い出が詰まったそれらの風景が形を変えていく事をどう感じ、
どう育っていくのか、今の僕の歳ぐらいになった時に聞ければ、とても幸せだ。