春のあの人

【春のあの人】

春。
やわらかい日差しを浴び、まるこやの幼い蜜柑の樹はここぞとばかりに枝を拡げ、さもご機嫌の様子。
ふんわりとした桜の花びらが風を伴い、至る所を散らかしながらクルクル歩いていく。
そんな昼下がり、ある女性のお客さんからこう告げられたのだ。

「まるこやさん、実はね、わたし開店当初に息子と一緒にここに来た事があるの。
 その時はチーズ饅頭が完売していて買えなかったんだけど、
 息子が1個だけ残っていたチーズ饅頭おまけでもらってね。
 とっても嬉しかったんですよ。」

開店当初と言えば、今から約10年前のこと。

ここ、まるこやがある下原町付近を子供の頃(30年以上前)から遊び場にしてきた僕から言えば、
この辺りは日本専売公社の工場や宮崎営林署の貯木場、そして旧国鉄の線路及び作業所があり、
また、近くには県営グラウンドや青葉陸橋もある規模の大きな土地であった。
規模が大きいからこそ、近くに住宅はあまりなく、夜になると殆ど真っ暗だと言っても過言ではない。
土地勘がないと、少し寂しく怖い場所でもあった。

それから30年以上経った今でこそ、これらの土地には綺麗なマンションや結婚式場が出来たり、
地区交流センターのような立派な公園施設が出来たりと、開発は素晴らしく進んだものの、
個人の客商売に向かない土地であることに変わりはなかった。
あくまで、子供の頃からこの辺りを秘密基地のように大切にしてきたからこそ、
まるこやは下原町で開業出来たのだ。

そんな経緯を持つまるこやを開店当初から知っている方と言えば、かなり「通」なお客さんなのだ。
僕と妻の興味を引き、次第に会話が弾むは当然の流れであった。

「あれから息子も大きくなってね、今では立派な警察官になったんですよ!
 当時はこの辺りに住んでいたんだけど、他県に引っ越しちゃって。
 最近また戻ってきたんですよ。
 これからよろしくお願いします。」

透明感のある笑顔の優しいお客さん。
話しているだけで心地よい接客を逆に受けているような感じさえするのだ。
いいお客さんと出逢えたな~と、僕と妻が互いに同じ印象を受けたことに確認はいらなかった。

それから暫くたった5月の初旬、このお客さんがまた来てくれた時のことだ。

「今日は下の子供の家庭訪問があるんです。
 お菓子を買えますか?」

穏やかな昼下がり、桜の花びらは殆ど散ってはいたが、
相変わらずまるこやの駐車場には、瑞々しい桜の花びらと風が元気に散歩していた。
そんな風景がお客さんにはとても似合っていた。
しかし、それも束の間、意外なことを打ち明けてくれたのだ。

「実は私、もともと体調が悪くて、子宮の病気にかかっているんですよ。
 月に数日間は治療のため入院をしなくちゃいけなくて。
 子どもたちに心配をかけているから、それが申し訳なくって。」

お客さんは優しい口調で、とても丁寧に、そう伝えてきたのだった。
僕と妻が言葉に詰まらないように、心配しないように、配慮してくれた口調だった。
その気持ちが判るほど、僕と妻は胸が熱くなってしまった。

病気の話を一通りされると、それ以降は子育てについて妻と楽しそうにしゃべっていた。
兄弟姉妹のこと、男の子と女の子の違いや、反抗期のこと。
学校がある平日とない休日、子どもがいる時といない時の生活サイクルについて。
お客さんは子育てに関するどの話も大変そうに、でも嬉しそうにしゃべっていた。
よほど積もり積もったモノがあったのか、妻は機関銃のように胸の内を口から撃ち出していた。
いつしかお客さんと妻は仲良しになっていた。

大いに新緑を感じる5月は一気に駆け抜けていき、
気が付けば不快な気温と湿度がねっとりと肌に纏わりつく6月になろうとしていた。

給気の為に開けている工房の窓から空を見上げると、
どんよりとした薄暗い灰色の雲底からポツリポツリと雨が落ち、
コロニアルで出来た工房の屋根にへばりつきながら地面に伝い落ちていく。

変化の激しいこの時期は僕にとって1年で1番作業がしんどくなる。
僕はしんどさと闘いながら、片やチーズ饅頭は気温や湿度と闘いながら、
オーブンの外と中で互いに協力し合い作業を進めていく。
止むことのない気だるさの中でも、有難いことにまるこやのインターホンはいつもと同じように鳴っていく。
半ばカラ元気気味に対応すると、そこには感じの良い初老の夫婦が立っていた。

「まるこやさん、初めまして。(お客さん)の父と母です。
 実はあの子、、、先日急遽入院になってしまって。
 脳梗塞を起こして意識不明なんです。」

突然の言葉だった。
理解しようと、体内の全ての細胞が耳を傾ける。
全身の毛穴が凄まじい勢いで逆立った。

「急に入院することになりまして。」

そう、お客さんは数日前、妻へメールをくれたのだ。
2,3行程度の短いメールではあったが、不自然さのない丁寧なものだった。
なのに今、僕と妻の前では現実とは思えない時間が流れている。

妻と初老の夫婦がいろいろ話し込んでいたが、
僕はただそれを視覚的に認知するだけの状態だった。
ただその雰囲気から、お客さんの状態が非常に良くないのは明白だった。
僕の記憶はしばらく曖昧のままだった。

春。
やわらかい日差しを浴び、まるこやの幼い蜜柑の樹は今年もご機嫌の様子。
ふんわりとした桜の花びらが風を伴い、至る所を散らかしながらクルクル歩いていく。
去年と同じように。

もう、あの透明感のある優しい笑顔を見ることはできない。
でも、店頭から見える春の風景が、桜の花びらが、風が、面影を確かに運んでくれる。
あの頃と同じように。

あの時、どうしてもっと。。。
あの時、どうしてもっと。。。

誰の、何のせいでもないのだ。
取り戻せない時間と、限られた時間の中で
僕たちは今を生きているのだ。
大切にしなければならない。

いい人だったなぁ。
いい人だったね。
優しい人だったなぁ。
優しい人だったね。

春は来年も面影と共に。

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